朱莉はスマホを震える手で握り締めた。いつもの朱莉なら翔からのメッセージに心を躍らせていたのだが、今日だけは違う。(怖い……このメッセージには一体何て書かれているの? 翔先輩……貴方は今何を考えているのですか?)朱莉は深呼吸をすると、翔からのメッセージをタップした。『こんばんは、朱莉さん。近々出張で鹿児島支社に行くことになったんだ。その時に沖縄にも寄らせて貰うよ。朱莉さんにも新しい秘書を紹介したいし。日程が決まったらまた連絡するね。そう言えば車は買えたのかな? 沖縄に行ったら朱莉さんの車を見せてくれるかい? 楽しみにしているよ。それじゃまた明日。お休み』「……」朱莉はじっと翔から届いたメッセージに目を通し、……何度も読み返し、終いには目を擦ってみた。今夜の翔からのメッセージには違和感がある。(え? ど、どうして今夜のメッセージに限って明日香さんのことが何一つ書かれていないの? いつもなら必ず明日香さんのことが書かれているのに?)単なる偶然なのだろうか?今の朱莉は本日、明日香から見せられた写真とメッセージで疑心暗鬼になってしまっていた。だけど、ずっと明日香と翔のことを誰よりも近くで見てきたのは自分だと思っている。朱莉にとっては悲しいことだけども明日香と翔の間には決して揺らぐことのない強い愛情で結ばれていると感じていた。それこそ、朱莉の入り込む隙等無いほどに。 こんな内容のメッセージを明日香に見せられるはずが無い。自分のことが何一つか書かれておらず、代わりに新しい秘書のことが書かれているのを目にすればあのプライドの高い明日香のことだ。どれだけ深く傷ついてしまうだろう。朱莉は明日香に今迄散々辛い目に遭わされて来たけれども、妊娠してからは徐々に明日香は変わってきていた。だから、朱莉も色々思う所があっても明日香の態度が軟化してきたので歩み寄れたら……と考えていたのだ。なので、余計に今の話を明日香に知らせるわけにはいかない。「そう、たまたま今夜のメッセージは明日香さんのことが書かれていなかっただけ……」朱莉は無理に自分に言い聞かせた。それに今は明日香のことばかりを心配している訳にはいかない事情が発生してしまった。翔からのメッセージには近々沖縄に行くと書かれていたけれどもそれはいつなのだろう?もし数日以内だとしたら、朱莉は東京にいつまでも残ってい
22時半―― 明日香はベッドの上で眠れぬ夜を過ごしていた。こんなに不安な夜を過ごすのはあの時以来だ。こうして1人きりでいるとあの日の夜を思い出してしまう。母が、まだ幼い子供だった明日香を捨てて新しく出来た恋人の元へ去って行ったあの日の夜が――あの時から明日香は鳴海家で居心地の悪い立場の人間となってしまった。元々明日香は父親が誰かも分からない子供で、連れ子として鳴海家へやってきたのだ。それでも母がいる分にはまだ鳴海家での居場所はあった。しかし、母親が自分を捨てて出て行ってしまってから明日香はますます立場が悪くなり、邪魔な存在扱いをされ……特に翔の祖父からは徹底的に嫌われた。子供の頃は意味が分からなかったが、祖父からはお前は娼婦の娘だと良く言われて来た。鳴海家の使用人達からは馬鹿にされ、陰でいじめられていた。義理の父親は優しかったが、祖父に疎まれて海外勤務へ追いやられて屋敷からはいなくなってしまった。そんな居心地の悪い屋敷の中で唯一の救いが血の繋がらない数カ月だけ年上の兄の翔だったのだ。毎日泣いて暮らす明日香を見兼ねた翔は明日香の母親をこの屋敷に呼び戻そうとする為に、ある行動を起こした。それこそ、子供ながらの浅はかな行動を……。そしてあの事故が起こり、翔は明日香から離れなくなったのだ。「翔……。ひょっとして私に対する罪悪感から私と一緒になろうと思ったの? 本当は私のことは好きじゃなかったの……?」明日香の目に涙が浮かんできた。その時、明日香のスマホが着信を知らせた。その相手は朱莉からだった。「朱莉さん……」明日香は朱莉からのメッセージを読んだ。『こんばんは。明日香さん。夜分にすみません。実は東京に戻ってから、一度部屋に戻ったのですが、考えてみればこちらには翔さんが住んでいます。鉢合わせをする危険性があると思うので、ここを出て今から上野にあるウィークリーマンションへ滞在することにします。上野でしたら明日香さんが紹介して下さった安西さんの興信所もありますし、日比谷線で乗り換え無しで六本木に出ることも出来ますから。後、私の方でも翔さんと新しい秘書の方が気になるので、少し調べてみようかと思います。それではまた明日ご連絡いたします』「朱莉さん……こんな夜に上野へ行くなんて大丈夫かしら。私が行ければ良かったのに……。ごめんなさい、朱莉さん……」(翔…
今を遡る事2時間前――「それにしても驚きましたよ。会長。突然日本へ戻って来られたのですから」応接室に呼ばれた翔は鳴海グループの会長である鳴海猛と向かい合わせに座り、会話をしていた。ここは鳴海邸。突然一時帰国して来た鳴海猛が翔を邸宅に呼びつけたのだ。「何故だ? いきなり日本に帰国すると何かお前に不都合でもあるのか?」相変わらず威厳たっぷりに猛は翔に尋ねる。「いえ、別にそういう訳ではありませんが」翔は内心の焦りを隠しながら冷静に返事をする。「まあ帰国と言っても一時的だ。中国支社にいたから、日本に久々に立ち寄っただけだ。2日後にはカルフォルニアへ行かなければならない」「カルフォルニアですか。これはまた随分遠くへ行かれますね」「ああ。最近あの地域は他の日本企業も多く進出しているからな。負けられない。実は現地で1500人の雇用を考えているのだ。どうだ、翔? お前カルフォルニアへ行く気はあるか?」「え? そ、それは……」(そんな、今の状況で日本を離れるなんて無理だ!)「ハハハ……冗談だ。責任者は現地で調達するからお前は気にすることは無い。だがいずれはお前にも海外支社を任すことになるかもしれんな。この通り、私はまだまだ身体は元気だ。当分現役で働けそうだからな。まあ、もっともお前がこの先、より一層成長すれば引退を考えてもいいだろう。可愛い曾孫も産まれることだし」猛は何処か目の奥を光らせ、翔を見た。「そうですね。順調にいけば5か月後には曾孫を抱かせてあげることが出来ますよ」動揺を隠しながら翔は笑顔になる。「それで朱莉さんは沖縄にいるそうだが、何故だ?」突然の核心を突いてくる猛の言葉に翔の全身に一気に緊張が走る。するとその時、まるでタイミングを見計らったかのようにドアをノックする音が聞こえた。――コンコン「誰だね?」猛がドア越しに声を掛けると、外から女性の声が答えた。『姫宮でございます』「ああ、君か。入れ」会長が促すとドアが開かれ、翔の新しい秘書である姫宮静香が現れた。長い黒髪に美しい容姿の女性だ。「お久しぶりでございます、会長」「ああ、そうだな。どうだ? 姫宮。翔の新しい秘書になって。何か意見はあるか?」「はい、まだお若いながら中々のやり手のお方だと感じました。私もこの方の下で色々学ぶことが出来そうです」姫宮は深々と頭を下
プルルルル……駅に向かって歩いている時に朱莉のスマホが突然鳴り響いた。その音に驚いた朱莉の肩がピクリと跳ねる。「い、一体こんな時間に誰から?」朱莉は足を止めると慌ててスマホを取り出し、息を飲んだ。(そ、そんな京極さん? な、何故突然……)京極には明日電話を入れるとメッセージを送ってある。なのに京極から電話がかかって来るとは思ってもいなかった。(どうしよう……。このまま電話が切れるのを待つ? でもそうすると京極さんをますます心配にさせてしまう)仕方が無い。出るしか無いだろう。そう思った朱莉は通話をタップした。「はい、もしもし」『朱莉さん! ああ、良かった……やっと出てくれましたね。心配しましたよ。いつもすぐに電話に出てくれる朱莉さんが何コール鳴っても中々出てくれなかったので』受話器越しから京極の安堵の声が聞こえてくる。「申し訳ございませんでした」朱莉は素直に謝罪する。『朱莉さん貴女の顔を見ながらお話したいのですが』「すみません、今は無理です!」京極の提案に思わず朱莉は強い口調で断ってしまった。『え? 何故ですか?』京極の声は驚きと、何処か悲しみが含まれているように朱莉は聞こえた。「あ、あのすみません。きつい言い方になってしまって。じ、実は今外にいるんです」『え? 何ですって? こんな夜分にですか?』京極の声が何処か鋭くなった。そして脳裏に先ほど見た光景が蘇る。「あ、あのコンビニに来ているんです。何だかお酒が飲みたい気分になって……それで買いにマンションを出て来たんです」朱莉は必死で言いわけをする。『そうですか。だから外が騒がしいんですね。でも朱莉さん。あまり夜分女性が町中を歩くものではありませんよ? 特に朱莉さんは一目を引く容姿をしているのですから、変な男に声を掛け兼ねられない』「な、何をまたおかしなことを言うのですか? わ、私は平凡な容姿ですよ」『朱莉さんは自分がどれだけ魅力的な外見をしているのかご自分で気付かれていないのですね。もう一度鏡で良くお顔を御覧になってみて下さい』京極の言葉に、朱莉は違和感を抱いた。(え……? 京極さん、どうしちゃったのかな……?)今夜の京極は何だかいつもと違うように朱莉には感じた。「もしかすると酔ってらっしゃいますか?」『何故そう思うのですか?』「い、いえ。何となくそう思っ
翌朝――朱莉は上野駅から徒歩5分程にあるウィークリーマンションで目が覚めた。1Kの6畳間に2畳ほどのロフト付きの部屋。1口コンロにバストイレ付。「フフ……何だか以前自分が住んでいた部屋みたい」いつも自分が過ごしてきたような広々とした部屋では無いが、朱莉にとっては何故かこの空間は居心地の良い部屋だった。「翔先輩と離婚が成立して、お母さんとまだ一緒に暮らせないなら、やっぱりこの位の広さの部屋に住もうかな」寂しげに言うと朱莉はベッドから起き上がり、着替えを始めた—― その後、近所のコンビニで朝食を買って部屋に戻り、テレビをつけた時にスマホに着信があった。相手は明日香からだった。朱莉はすぐにメッセージを開いて見た。『おはよう、朱莉さん。昨夜は無事に上野に着いたのかしら? 昨夜のうちに安西先生には連絡を入れておいたわ。9時には事務所が開いているそうだから申し訳ないけれども今日尋ねて貰える? お願いします』「明日香さん……」本当に明日香は以前に比べて別人のように変ったので朱莉は正直戸惑っていた。(それともこれが本来の明日香さんだったの……?)その時、朱莉の頭の中に翔と女性秘書が親し気に並んで歩いてい写真が蘇ってきた。朱莉は悲しい気持ちになったが、それでもあの女性秘書と翔が結ばれることだけは想像したくなかった。明日香を安心させる為にも、自分の為にも、何としても翔と秘書の関係を明白にしておかなければと改めて朱莉は思うのだった。9時になり、朱莉がウィークリーマンションを出ると外は冷たい小雨が降っていた。「あ、雨……。そ、それに肌寒い……。沖縄とは大違いね」朱莉は両手で自分の身体を抱きしめると、一度部屋に戻り、折り畳み傘と念の為に持って来たコートを羽織ると再び外に出た。そして玄関先で明日香にメッセージを打った。『おはようございます。これから安西弘樹先生の興信所へ行ってきます。また後程ご連絡致します』短くそれだけ打つと、朱莉はコートの襟を立てて傘をさすと住所を頼りに興信所へと向かった――**** 安西弘樹興信所――そこは上野駅不忍改札口から徒歩5分程の雑居ビルの3Fにあった。朱莉は雑居ビルを見上げながら呟いた。「まさか自分の人生の中で興信所を使うなんて夢にも思わなかったな……」このビルにはエレベーターが無かった。朱莉は狭い階段を上り、事務
「え?」一体明日香は安西に朱莉のことをどのように説明したのだろうか?「とても愛らしい女性だと、だから羨ましいと明日香君が言っていましたよ?」安西はニコニコしながら朱莉に説明する。「え? その話本当ですか?」「ええ、本当ですよ」朱莉には信じられなかった。あの明日香が自分のことをそんな風に思っているとは今迄考えてもいなかったのだ。(明日香さん……私達これから少しずつ歩み寄っていけるでしょうか……?)朱莉は心の中で沖縄にいる明日香に問いかけた。「ところで、朱莉さん。ご主人の浮気調査と言うことでよろしいのですよね?」明日香はどうやら朱莉の夫の浮気調査と言う事で安西に話を持ちかけていたらしい。「は、はい。そうです。あまり長くは時間をかけられないので出来れば3日程で調べていただけないでしょうか?」(そうだ、安西先生に不審がられないようにしっかりしなくちゃ)朱莉は背筋を正しながら尋ねた。「実は今朝、明日香君から調査費用の前払いとしてすでに50万円受け取っているんですよ。いや~流石、売れっ子イラストレーターですよね? そこで既にうちの若いスタッフ2名に昨夜から調査を始めさせているんですよ。先程、連絡が入ってきたところです」安西は机の上に載っていたノートパソコンを手に取ると、再び朱莉の前に腰を下ろした。「どうぞ、御覧になって下さい」「は、はい」朱莉は恐る恐るPC画面を見た。そこには翔と新しい女性秘書が立派な門の前でベンツに乗り込もうとする写真が映っていた。写真を見る限りでは夜のようである。「!こ、これは……?」朱莉は息を飲んだ。「これは鳴海邸の前でうちのスタッフが取った昨夜の写真です。どうも何処かのホテルで開催された記念式典に参加したようですよ。ああ、そうだ。こちらの写真も御覧になって貰わなくてはなりませんでしたね。少し、失礼します」安西は朱莉の側でPCを操作すると、次の写真を出した。そこに写っていたのは……。「え! も、もしかすると鳴海……会長……?」一度しか会った事が無かったが、画面に映る顔には見覚えがあった。実は朱莉は少しでも鳴海家の会社について学んでおこうと思い、ビジネス雑誌に鳴海グループの特集が組まれていた際には購入して読んでいたので顔はよく覚えていたのだ。圧倒的なカリスマ性、まるで鷹の目のような鋭い瞳……。画面を食い入
「あ、あの…私では判断することが出来ません。申し訳ございませんが安西先生から明日香さんに話を聞いていただけますか? お願いします」朱莉は契約結婚の秘密を話していいのかとても自分では判断を下すことが出来なかった。(だって翔先輩からこの契約婚はビジネスだと言われたから……!)朱莉はその時のことを思い出し、悲しい気持ちになってしまった。下を向いて俯いてしまった朱莉を見て安西は声をかけた。「何か深い事情がありそうですね……。いいでしょう、私から明日香君に連絡を入れてみますよ」そして安西はすぐに明日香にメッセージを打ち込んで送信し終えると朱莉を見た。「すぐに返事が来るかどうか分かりませんのでこちらで調べて今現在分かっていることを報告させていただきますね」「はい、よろしくお願いします」「今のところ、鳴海翔さんと秘書の女性、姫宮静香と言う女性とは特に親しく交際しているような雰囲気は無さそうだと調査員として動いているうちの若いスタッフがそう報告してきていますね」「そうですか」朱莉は胸を撫で下ろした。「ですが……少し気になる情報を入手いたしました」「気になる情報……ですか?」安西の言葉に朱莉の胸がドキリとした。(そう言えば翔先輩は新しい女性秘書の存在を九条さんには内緒にしていたと言ってたっけ……。そのことと何か関係があるのかな……?)その時。「おや? 明日香君からメッセージが届きましたよ。どうやら電話で私と話したいらしいですね。朱莉さん。すみませんが明日香君と話をしている間、少し席を外していただいてもよろしいですか? 個人情報に係わる話が出てくるかもしれませんので」「はい、分かりました。では一度外に出ていますね。丁度向かい側に本屋さんがあったのでそこにいます」朱莉は一度事務所を後にした。**** 本屋さんで雑誌を手に取ってパラパラとめくってみるも、明日香と安西の話の内容が気になって、少しも内容など頭に入ってこなかった。何度目かのため息をついたとき、突然背後から声をかけられた。「朱莉さん。お待たせしました。話が終わったので事務所に戻りましょう」「はい」事務所に着くと、安西がコーヒーを淹れてくれた。事務所にはコーヒーの良い香りが漂っている。「いい香りですね……」朱莉はコーヒーの香りを吸い込む。「ハハハ……実は私は少しコーヒーにうるさ
「あ、あの明日香さんからは……何所まで話を聞かされたのですか?」朱莉はギュッと両手を握りしめると尋ねた。「どこまで……と言いますと?」安西が静かに尋ねた。「私と翔さん。そして明日香さんとの関係です……」朱莉は声を震わせて答えた。「ええ、聞きました。朱莉さんは契約妻なんですね。本当の夫婦のような関係にあるのは明日香君と鳴海翔さんだと言うことも。朱莉さんは大変な役目を引き受けたのだと思いましたよ」「あ、あの! 私は……」朱莉が言いかけたところを安西が言葉を重ねてきた。「安心して下さい」「え?」「我々調査員は絶対に依頼主の情報を何処かに漏らすような真似は絶対にしません。ましてや明日香君は私の教え子でもある。そこは安心して下さい」安西の目は優し気に朱莉を見つめていた。「電話で明日香君が貴女に悪いことをしたと泣きながら言っていましたよ」「明日香さんが……」「沖縄に戻ったら話がしたいと言ってました」「そうですか……」(明日香さん……)朱莉は明日香との距離が少し縮まるのを感じた。「さて、朱莉さんと翔さんが仮の夫婦だとなると、ますますそのメッセージが怪しいことになりますね。恐らくメッセージを送った相手は明日香君と翔さんの関係を知っている人物と言うことになります。何せあのメッセージを朱莉さんでは無く、他でも無い明日香君に送ってきたのですから」「そうですね。普通に考えれば私にメッセージを送ってくるはずでしょうから」「ええ。それで一つ気になる点があります」「気になる点ですか……?」「ええ。実はこちらの秘書の女性についてです」「秘書……姫宮さんのことですか?」「ええそうです。実はこの女性、調べたところ鳴海グループの現会長の秘書を以前していたようですね」「え!? ほ、本当ですか!?」朱莉はその言葉に衝撃を受けた。「ええ。こちらでこの女性のことを調べていたらある記事を見つけたんです。3年ほど前の記事になるのですが」言いながら安西はPCを操作すると、朱莉に画面を見せた。「ほら、この映像を見て下さい。会長の写真ですが、その背後に立っている女性です」「え……?」すると会長の背後に立っていた女性は姫宮静香だった――****何所をどう帰って来たのか、気付けば朱莉は今賃貸中のウィークリーマンションに帰りついていた。安西が見せてくれた画
「それじゃあ、朱莉さん。また明日」琢磨は靴を履くと朱莉を振り返った。「はい。又明日……」「朱莉、それじゃあな」航は朱莉の頭を撫でた。「うん、又ね?」それを見た琢磨は航を咎める。「安西君。年上の女性に頭を撫でるなんて失礼だと思わないのか?」「いや別に。俺に頭撫でられるの、朱莉はいやか?」「え……? 全然いやじゃないけど?」朱莉が首を傾げて返事をし、航は勝ち誇った顔で琢磨を見る。「ほら、見ろ。朱莉は嫌じゃないってよ?」「……っ!」琢磨は悔しそうに航を見つめ……促した。「よし、それじゃ……行くぞ?」「ああ、いいぜ」どことなく喧嘩腰の2人を見て朱莉は流石に心配になってきた。「あの……」「「何?」」2人が同時に朱莉を見た。彼らの間に異常な緊張感を感じた朱莉は自分の伝えたい気持ちを言葉にすることが出来ない。「い、いえ。それじゃ……おやすみなさい」「ああ、お休み朱莉。ちゃんと戸締りして寝るんだぞ?」何処までも航が朱莉の彼氏の様に振舞う姿が琢磨には我慢できなかった。料理が「朱莉さん。今度は俺が手料理を振舞うよ。こう見えて俺は意外と料理が得意なんだ」本当は包丁すら握ったことが無いのに、琢磨はつい口から出まかせを言ってしまった。すると航も口を挟んできた。「朱莉! 俺も今度はお前の為に料理を作るからな!? 楽しみにしてろよ!」そしてじろりと琢磨を睨み付ける。「あ、ありがとうございます……」朱莉は航と琢磨の雰囲気に押されながら礼を述べた。「じゃあな、朱莉」「またね、朱莉さん」扉を開けて出ていく航と琢磨。—―バタン……玄関のドアが閉められた。「つ、疲れた…」ようやく朱莉は安堵の溜息をつき、その場に座り込んだ——****「「……」」琢磨と航は無言でエレベータの隅に立ち、互いをけん制し合っていた。やがてエレベーターが1階に着いたので、2人は無言で降りると琢磨が口を開いた。「取りあえず俺の車の中で話をしようか」「ああ、いいぜ」「それじゃ待ってろ。今車を前に持って来るから」琢磨はぶっきらぼうに言うと、駐車場へ車を取りに行った。そんな琢磨の背中を見ながら航は呟いた。「全く……あの九条って男は俺の想像していたタイプとは大分違ったな。でもある意味、京極よりは分かりやすいだけマシか……。あいつの方がたちが悪そうだもんな
今、3人で囲んだ食卓は一種異様な緊張感が漂っていた。航も琢磨も互いをけん制し合うように睨み合っているのを前に、朱莉はどうしたら良いか分からなかった。(困ったな……。どうしてこんなことになってしまったんだろう? 航君も九条さんも何だかいつもと雰囲気が違うし……)朱莉は翔のことしか目に入っていないので、自分が原因で2人が険悪な雰囲気に陥っていることに全く気が付いていなかったのだ。「あ、あの……。今夜は少し冷えるのでブイヤベースを作ってみたのですが……。2人供食べれます……か?」恐る恐る朱莉は尋ねる。「ああ、食べるに決まってるだろう? 俺は好き嫌いは何も無いし、朱莉の作った食事なら何でも食べるぞ?」航が笑顔で朱莉に言う。「朱莉さん。俺も好き嫌いは何も無いから大丈夫だよ。朱莉さんの作った食事、とても楽しみだよ」琢磨も満面の笑顔で言うと、琢磨と航は互いをジロリと睨み合った。「あ、あの……そ、それでは今出しますね……」すると航が立ち上った。「朱莉、手伝うぞ? 何をしたらいい?」「ありがとう、航君。それじゃ食器を出してくれる?」朱莉は笑顔で航に言うのを琢磨は面白くなさそうに見ている。航は朱莉に礼を言われると、これ見よがしにチラリと琢磨を見た。(どうだ? 九条。俺は1週間近く朱莉と同居していたから息がぴったりなんだよ)一方の琢磨は航の行動をイライラしながら見ている。(何なんだ……? あいつは! 京極とはまた違った意味で人をイラつかせる男だ……!)やがてテーブルの上にはブイヤベース、さまざまな具材が乗ったバゲット、アボガドとエビのカクテルサラダが並べられた。「へえ~。美味しそうだ。流石だね、朱莉さん。色とりどりで見た目も華やかでとても素敵だよ。写真を撮ったらSNS映えしそうだね」琢磨の言葉に朱莉は頬を染めた。「あ、ありがとうございます……九条さん」そしてそんな様子を面白く無さげに見る航。(どうだ? お前も何か気の利いたセリフの1つでも言ってみろよ)琢磨は自分でも大人げないとは思いつつ、挑戦的な目で航を見た。「あ、朱莉!」航は朱莉を大きな声で呼ぶ。「な、何? 航君」「全部うまそうだ! いや、美味いにきまってる!」「びっくりした〜突然大きな声を出すから。それじゃどうぞ。食べてみて下さい」「ああ、いただこうかな?」言いながら
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と